予約は本日8月25日(水)から、市公式LINEまたは市接種相談センター(0120-567-582)で可能です。
同美術館の詳細は上記ホームページに詳しいのでそちらをご覧くだ
同美術館内を流れる松尾川に掛かる橋を渡ると数奇屋門、さらに、
現在工事中のその橋が太鼓橋になっていて「洗塵橋」との名称。
住吉大社の有名な太鼓橋「住吉反橋」には「この橋を渡るだけでお
「洗塵橋」も、「茶室へ入る前に身を洗う」意味があるようにその
最後の写真は、久々に見た睡蓮。お釈迦さま、極楽をイメージさせ
7月17日付「やすとログ」( https://log.yoshidayasuto.jp/archives/5760509.html )でご報告したとおり、和泉市ではコロナ・ワクチンの接種が順調に進んでいます。市民各位のニーズへさらに的確に応えるため、「和泉市におけるコロナワクチン接種 ~接種を希望する市民への”迅速な対応”について考える~」がテーマでした。
和気町に平成30年4月移転された同センターは、テレビ・ドラマに出てきそうな美しい佇まい。院内を近々に視察する計画ですが、まずは、その美しさに感動しました。
冒頭挨拶で辻宏康和泉市長から、「ワクチン接種を重要な施策と位置付けている」と力強く宣言。
基調講演は、和泉市立総合医療センター病院長・松下晴彦先生。演題は「当院のワクチン接種について」。「(ワクチンを)打たないのは自由だが、(打たないように)人を誘うのはやめて欲しい」「ワクチンは、各人の命を守る道具で、もとの世界へ戻す道具ではない」とのお話が印象的でした。
後半は、「『コロナ・ワクチン接種の取り組み』について」と題してパネルディスカッションが行われました。コーディネーターが松下院長先生、進行は川口いずみ看護部長。パネリストは次のかたがたでした。辻宏康 和泉市長、泉谷良 和泉市医師会長、上嶋一之 和泉市歯科医師会長、大谷美智代 和泉市薬剤師会長、竹内一浩 府中病院院長、丹彰浩 咲花病院院長、喜田浩人 和泉商工会議所青年部会長。
内容はもちろん大切です。一方で、このメンバーによるディスカッションができることそのものが、関係各位の密接な連携の象徴で素晴らしいと言えます。咲花病院院長先生を初め各パネリストもおっしゃっていましたが、関係機関・各位の使命感、そして、「オール和泉でやっていこう」との団結力は大切と感じました。
今後、現役世代や若年層へワクチン接種を広げていくにあたり、職域接種や集団接種、さらに、中途半端な知識に基づくネガティブ情報がある中での効果的啓発活動がポイントになります。そのほか、「(病院からより)行政からの情報発信が必要」「和泉市独自のアイデアが大切」「『様子を見てから接種したい』と現時点思っている層(の接種率を)を引き上げる」「(啓発活動には)国家的動きが必要」など様々な視点からの議論が行われました。
このシンポジウムで出された知見、意見、問題意識をしっかり受け止め、全市民(12歳以上)の70%接種の実現をめざします。
#吉田康人 #和泉市 #地域福祉 #地域防災 #地方分権 #都市内分権 #経済再生 #内需拡大 #ZUMA(ズーマ) #HoneyGOLD(ハニーゴールド) #フジバカマ #アサギマダラ
「トリコ」は、和泉市のPRキャッチコピー「ココロトリコイズミ」から取りました。
さて、今、世界中のまちづくりで最大の課題になっているのがコロナ・ワクチンの接種です。進捗状況を示す様々な指標がありますが、和泉市はどれを見てもその順調さを示しています。
ご高齢者へのワクチン接種率(1回目)は、先週末の時点で既に、市の全65歳以上人口の9割を超えました。全国平均、大阪府平均を遥かに上回るペースで接種が進んでいます。
政治・行政の連携、市職員の工夫・努力は言うまでもありません(具体的には、行政マネジメント論として適宜述べます)。何よりも、医師会、診療所、病院など医療機関・組織のご協力、そして、住民のご理解に対して厚く御礼申し上げます。
医療・福祉との連携、住民意識の向上は感染症拡大防止策の生命線です。常日頃の地道な努力が誇れる成果を生みました。引き続き、緊張感を持ってあたります。
#吉田康人 #和泉市 #地域福祉 #地域防災 #地方分権 #都市内分権 #経済再生 #内需拡大 #ZUMA(ズーマ) #HoneyGOLD(ハニーゴールド) #フジバカマ #アサギマダラ
https://www.city.osaka-izumi.lg.jp/kakukano/kosodatekenkobu/kenko_covid/osirase/15367.html
山崎の合戦(天正10年(1582年)6月)で勝利した豊臣秀吉は翌7月、山頂に山崎城を築き大山崎を城下町として保護しました。大阪築城が本格化した同12年4月、同城は破却されました。
「天下分け目」の天王山の戦い(山崎の合戦)と言われます。秀吉の天下人への道がここから始まったという意味でもありますが同時に、時代の大きな分岐点でもありました。
あらゆる面で独裁者であった織田信長と異なり、秀吉は、城の縄張りを黒田官兵衛孝高、襖絵は加納永徳一門、接遇演出は千利休へ委ねるなど、専門家の意見を尊重しました。絶対王制を目指した信長に対して、秀吉は、中央集権と地方分権とを組み合わせた封建社会を構築しようとしました。秀吉はまた、政治的な天下の支配だけでなく、大阪を中心とした物資と金銭の流通を把握しました。文化の面でも、茶道や囲碁、将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせました。
勢力回復を図った尊王攘夷派は、挙兵し京都市内で市街戦を繰り広げました。これを禁門の変と言います。御所内へ一時侵入した同派でしたが、薩摩藩が援軍に駆けつけると形勢が逆転、敗退しました。
久坂玄瑞らの自害後、敗残兵をまとめ大山崎へ引き上げた元久留米藩士で水天宮宮司の真木和泉守保臣は、兵を国許へ帰還させました。真木とこれに付き従った16名とは、天王山中で郡山藩、新撰組と一戦を交えた後、爆死を遂げたと言われています。
この戦いを契機に時代は大きく動きました。慶応2年(1866年)、坂本竜馬の斡旋により薩長同盟が成立、慶応4年(1866年)には、大政奉還となります。真木らの遺体は当初、宝積寺三重塔前の地に埋められました(前述)。しかし、参拝者が多いのを見かねた幕府の手により竹林へ埋め移されました。明治時代になり、真木らの行動は改めて見直され、彼らを顕彰するため十七烈士の墓所が現在の位置に整備されたのです。