2021年07月
「トリコ」は、和泉市のPRキャッチコピー「ココロトリコイズミ」から取りました。
さて、今、世界中のまちづくりで最大の課題になっているのがコロナ・ワクチンの接種です。進捗状況を示す様々な指標がありますが、和泉市はどれを見てもその順調さを示しています。
ご高齢者へのワクチン接種率(1回目)は、先週末の時点で既に、市の全65歳以上人口の9割を超えました。全国平均、大阪府平均を遥かに上回るペースで接種が進んでいます。
政治・行政の連携、市職員の工夫・努力は言うまでもありません(具体的には、行政マネジメント論として適宜述べます)。何よりも、医師会、診療所、病院など医療機関・組織のご協力、そして、住民のご理解に対して厚く御礼申し上げます。
医療・福祉との連携、住民意識の向上は感染症拡大防止策の生命線です。常日頃の地道な努力が誇れる成果を生みました。引き続き、緊張感を持ってあたります。
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https://www.city.osaka-izumi.lg.jp/kakukano/kosodatekenkobu/kenko_covid/osirase/15367.html
山崎の合戦(天正10年(1582年)6月)で勝利した豊臣秀吉は翌7月、山頂に山崎城を築き大山崎を城下町として保護しました。大阪築城が本格化した同12年4月、同城は破却されました。
「天下分け目」の天王山の戦い(山崎の合戦)と言われます。秀吉の天下人への道がここから始まったという意味でもありますが同時に、時代の大きな分岐点でもありました。
あらゆる面で独裁者であった織田信長と異なり、秀吉は、城の縄張りを黒田官兵衛孝高、襖絵は加納永徳一門、接遇演出は千利休へ委ねるなど、専門家の意見を尊重しました。絶対王制を目指した信長に対して、秀吉は、中央集権と地方分権とを組み合わせた封建社会を構築しようとしました。秀吉はまた、政治的な天下の支配だけでなく、大阪を中心とした物資と金銭の流通を把握しました。文化の面でも、茶道や囲碁、将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせました。
勢力回復を図った尊王攘夷派は、挙兵し京都市内で市街戦を繰り広げました。これを禁門の変と言います。御所内へ一時侵入した同派でしたが、薩摩藩が援軍に駆けつけると形勢が逆転、敗退しました。
久坂玄瑞らの自害後、敗残兵をまとめ大山崎へ引き上げた元久留米藩士で水天宮宮司の真木和泉守保臣は、兵を国許へ帰還させました。真木とこれに付き従った16名とは、天王山中で郡山藩、新撰組と一戦を交えた後、爆死を遂げたと言われています。
この戦いを契機に時代は大きく動きました。慶応2年(1866年)、坂本竜馬の斡旋により薩長同盟が成立、慶応4年(1866年)には、大政奉還となります。真木らの遺体は当初、宝積寺三重塔前の地に埋められました(前述)。しかし、参拝者が多いのを見かねた幕府の手により竹林へ埋め移されました。明治時代になり、真木らの行動は改めて見直され、彼らを顕彰するため十七烈士の墓所が現在の位置に整備されたのです。
区役所の親しい仲間と挨拶を交わせました。元気で明るい笑顔を見られて嬉しかった。「大阪市で最後の手続き」と思うと少し寂しくも感じました。