江戸時代末期、ペリーの黒船来航により、公武合体派(薩摩藩、会津藩)と尊王攘夷派(長州藩)との抗争が続きました。文久3(1863)8月、クーデターが起こり、長州藩を主とする尊王攘夷派は京都を追われました。翌年には、池田屋事件で、多数の長州藩士が新撰組に襲われ亡くなりました。


勢力回復を図った尊王攘夷派は、挙兵し京都市内で市街戦を繰り広げました。これを禁門の変と言います。御所内へ一時侵入した同派でしたが、薩摩藩が援軍に駆けつけると形勢が逆転、敗退しました。


久坂玄瑞らの自害後、敗残兵をまとめ大山崎へ引き上げた元久留米藩士で水天宮宮司の真木和泉守保臣は、兵を国許へ帰還させました。真木とこれに付き従った16名とは、天王山中で郡山藩、新撰組と一戦を交えた後、爆死を遂げたと言われています。


この戦いを契機に時代は大きく動きました。慶応2(1866)、坂本竜馬の斡旋により薩長同盟が成立、慶応4(1866)には、大政奉還となります。真木らの遺体は当初、宝積寺三重塔前の地に埋められました(前述)。しかし、参拝者が多いのを見かねた幕府の手により竹林へ埋め移されました。明治時代になり、真木らの行動は改めて見直され、彼らを顕彰するため十七烈士の墓所が現在の位置に整備されたのです。


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