標高270.4メートルの天王山山頂。

 

山崎の合戦(天正10(1582)6)で勝利した豊臣秀吉は翌7月、山頂に山崎城を築き大山崎を城下町として保護しました。大阪築城が本格化した同124月、同城は破却されました。

 

「天下分け目」の天王山の戦い(山崎の合戦)と言われます。秀吉の天下人への道がここから始まったという意味でもありますが同時に、時代の大きな分岐点でもありました。

 

あらゆる面で独裁者であった織田信長と異なり、秀吉は、城の縄張りを黒田官兵衛孝高、襖絵は加納永徳一門、接遇演出は千利休へ委ねるなど、専門家の意見を尊重しました。絶対王制を目指した信長に対して、秀吉は、中央集権と地方分権とを組み合わせた封建社会を構築しようとしました。秀吉はまた、政治的な天下の支配だけでなく、大阪を中心とした物資と金銭の流通を把握しました。文化の面でも、茶道や囲碁、将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせました。

 

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